はじめに:208ページで、現実と虚構の境界が揺らぐ読み切り大作
藤本タツキ『さよなら絵梨』は、2022年4月11日に少年ジャンプ+ で公開された、全208ページの大型読み切り。
『ルックバック』で読者を泣かせた藤本タツキが、その9ヶ月後に発表した次の一手は、映画をテーマにした全く新しい読書体験でした。
本作の最大の特徴は、ほぼ全ページが「映画的なフレーム」を模したコマで構成されていること。「漫画を読んでいるのか、映画を観ているのか」の区別が、ページをめくるごとに揺らいでいきます。
そしてラスト、あの「爆発」。
この記事では、
- 『さよなら絵梨』のあらすじ
- なぜ「映画的フレーム」で構成されているのか
- メタフィクションとしての本作
- 「爆発」エンドの意味
を、ファン目線で読み解いていきます。
※全編にわたり物語の核心に触れます。未読の方は必ず先に作品を読んでから戻ってきてくださいね。
『さよなら絵梨』のあらすじ
主人公は、母親の余命宣告をきっかけに、彼女の最期を映画として撮ることを決意した中学生・優太。
母の死までを撮影し、編集して上映会で発表する ── というのが、物語の最初の山場。だが、母の最期の瞬間、優太はカメラを置き、病室を飛び出してしまいます。
その編集された「映画」が、観客に爆笑されるという惨憺たる結果に終わったあと、優太は廃墟で出会った不思議な少女・絵梨と知り合います。
絵梨は優太に「もう一本映画を撮ろう」と提案します。「私は重病で、もうすぐ死ぬ」と言いながら。
ここから物語は、優太と絵梨が共に過ごす時間を経て、また別の「映画」へと結実していきます。
なぜ全ページが「映画的フレーム」なのか
本作のページをめくると、すぐに気づきます。すべてのコマが、横長で、引きの構図で、映画のスチル写真のように配置されている。
これは単なる演出上の趣向ではありません。
「優太が撮っている映画の映像そのもの」が、読者の前に提示されている。つまり、読者は「漫画を読んでいる」のではなく、「優太が撮った映画を観ている」体験を、藤本タツキが意図的に設計しているのです。
そう考えると、ところどころに挟まれる「カメラを下ろした主観視点」のコマや、「スマホ画面越しのカット」が持つ意味が、ぐっと立ち上がってきます。
メタフィクションとしての『さよなら絵梨』
本作は、二重三重のメタフィクション構造を持っています。
- 「優太が母を撮った映画」
- 「優太と絵梨を撮った映画」
- そして、それを読者が読んでいる「漫画」
この階層が、作中で何度もぐにゃぐにゃと入れ替わります。
絵梨が「これは私が撮った映画」と語るシーン、優太の「現実」に絵梨が再登場するシーン ── どこからが現実で、どこからが映画なのか、読者には最後まで明示されません。
藤本タツキは、「物語ること」「映像化すること」「記憶すること」の境界を曖昧にすることで、読者自身の記憶や創作行為を問い直してきます。
「爆発」エンドの意味
ラスト、優太は廃墟ですれ違う絵梨と再会します。そして、爆発が起こる。
このシーンの意味を、ひとつに定めることはできません。
ただ、いくつかの読みは可能です。
- 「現実離れ」を視覚化したフィクションの宣言:藤本タツキは「映画にはひとつ非現実な絵が必要」と作中で語らせています。爆発は、その「非現実」そのもの
- 記憶を映画として残すことの暴力性:絵梨の死を映画にしてしまった優太が、最後に「彼女との物語」自体を爆破する
- 生き続けることへのカタルシス:失った人を「物語」として保存し、それを爆破することで、ようやく前に進める
どの読みを取っても、本作が「失われた人を物語として留めることの是非」を問うているのは確かです。
まとめ:『さよなら絵梨』は、何度も読み返してこそ完成する
『さよなら絵梨』は、一回目の読書では「何が起きたのか」を追うだけで精一杯になります。
二回目で、ようやく構造が見え始める。三回目で、自分なりの読みが立ち上がってくる。
そういう、何度も帰ってくるための作品です。
藤本タツキの「メタフィクション」という表現の、現時点での集大成。一冊で読み切れるので、まだ手に取っていない方はぜひ。
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出典・参考
- 藤本タツキ『さよなら絵梨』集英社ジャンプコミックス, 2022年
- 少年ジャンプ+ 2022年4月11日掲載


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