『さよなら絵梨』の「嘘」をどう読むか。語り手と読者のすれ違い

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はじめに:『さよなら絵梨』に散りばめられた「嘘」のサイン

藤本タツキ『さよなら絵梨』を最後まで読み終えたとき、多くの人がこう感じたのではないでしょうか。

「これ、どこまでが本当の話なんだろう?」

『さよなら絵梨』は、208ページのなかに いくつもの「嘘」のサイン を仕込んでいる作品です。優太が語る物語を、そのまま受け取っていいのか。母の死は描かれた通りなのか。絵梨の「もうすぐ死ぬ」は本当だったのか。

この記事では、本作を 「嘘」をめぐる物語 として、3つの入口から読み解いていきます。

※全編にわたり物語の核心に触れます。未読の方は先に本編を読んでから戻ってきてください。

嘘の入口1 ── 優太が母を撮った映画は「編集」されている

物語の最初の山場は、優太が母を撮影し、その最期までを「映画」として上映する場面です。

ところが優太は、母が亡くなる瞬間 ── カメラを向けるべき決定的な場面で、カメラを置いて病室から逃げ出してしまいます。完成した「映画」のラストには、優太が逃げ出す背中と、爆発する病院だけが残された。

ここでまず気付かなければいけないのは、「母の映画」自体が、優太の編集を経た作品である という事実です。

「これは現実をそのまま記録した映像」ではなく、「優太が現実の一部を選び、編集した映像」。母の最後の数十秒は、本当はそこにいた優太によって、意図的に映されなかった。

つまり読者は、最初の場面から 「編集された現実」しか見ていない。これが『さよなら絵梨』全体の読み方を決める、最初のサインです。

嘘の入口2 ── 絵梨の「もうすぐ死ぬ」は本当だったか

廃墟で優太が出会う絵梨は、初対面で「私は重病で、もうすぐ死ぬ」と告げてきます。優太は彼女と一緒に新しい映画を撮り始め、絵梨はやがて本当に「死ぬ」── そう描かれます。

ところがラスト、数年後の廃墟で、優太は 昔と全く変わらない姿の絵梨 に再会します。そして絵梨はこう告げる。「自分は本当に吸血鬼だった」と。

この瞬間、読者はそれまで読んできた全てを 疑い直す ことになります。

  • 絵梨が「死ぬ」と言っていたのは、吸血鬼として「死んだフリ」をすることだったのか
  • それとも、ラストで出てきた「吸血鬼の絵梨」自体が、優太の新しい編集なのか
  • そもそも、絵梨という少女ははじめから優太の創作だった可能性もあるのか

藤本タツキは、これらの読みのどれが「正解」かを明示しません。「絵梨が嘘をついていた」のか、「優太が嘘の物語を作った」のか ── その判断は、読者ひとりひとりに委ねられているんです。

嘘の入口3 ── すべては優太の作った映画なのか

『さよなら絵梨』のページをめくっていると、何度も「これは優太が撮っている映画です」というサインに出会います。

  • 全コマが映画的フレームで構成されている
  • ところどころでカメラを置いた手元の主観カットが挟まれる
  • 「映画の中の映画」が、物語の中で何度か再生される

この演出が積み重なると、ある可能性が浮上してきます ── 物語そのものが、優太が撮った「もう一本の映画」なのではないか という読み方です。

優太が母を映画にして、絵梨を映画にして、そして最後に 「絵梨との出来事ぜんぶ」を映画にした。今読者の前にある『さよなら絵梨』という漫画は、その「もう一本の映画」をそのまま見せられているもの ── そう読むこともできてしまう。

「信頼できない語り手」としての優太

物語論の世界には、「信頼できない語り手」 という言葉があります。

「語り手の言うことを、そのまま信じてはいけない」ことが、作品の構造として組み込まれているパターンです。優太はまさにこの典型例で、彼の語る「現実」がどこから優太の編集を経たものなのか、最後まで明示されません。

藤本タツキは、優太を信頼できない語り手として配置することで、読者に 「物語を疑いながら読む」 ことを要求してきます。「絵梨は本当に死んだのか」「母の最期は本当にあの通りだったのか」「全体は誰の映画なのか」 ── 読者の中に、答えの出ない問いを残し続けます。

嘘が嘘でなくなるとき ── 爆発の意味

ラストの爆発について、読み方はひとつではありません。ただ、本記事の「嘘」軸で読むと、こんな解釈ができます。

爆発とは、「これは映画です」と、藤本タツキが読者に告げる合図 です。

作中では、絵梨が優太の映画について「ファンタジーがひとつまみ足りない」と言います。現実をそのまま並べても映画にはならない。最後にひとつだけ、嘘の絵 ── つまり「現実離れした絵」を入れることで、ようやく作品は完成する。

爆発は、その「ひとつまみの嘘」そのものです。

そして大事なのは、その嘘によって読者が泣かされるという事実。「これは嘘の物語だ」と宣言された瞬間、読者の感情はむしろ強く動かされる。「嘘だからこそ伝えられる本当」 が、爆発の中に詰まっているんです。

まとめ

『さよなら絵梨』は、嘘でできた物語です。

  • 優太が母を撮った映画は、優太の編集を経ている
  • 絵梨の「もうすぐ死ぬ」は、吸血鬼としての嘘か、優太の創作か
  • 物語そのものが、優太が撮った「もう一本の映画」かもしれない
  • そして藤本タツキは、最後に爆発で「これは映画です」と宣言する

読み終わったあと、「結局、何が本当だったの?」と聞かれても、誰も答えられない。それでも読者の心には、強い感情だけが残る。

藤本タツキは、嘘という装置を使って、本当のものを伝えてくる作家です。『さよなら絵梨』は、その手つきを最も鮮やかに見せてくれる1作と言えます。

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出典・参考

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