はじめに:藤本タツキの読み切り2作は、なぜ似た構造を持つのか
『ルックバック』(2021年)と『さよなら絵梨』(2022年)── 藤本タツキは1年弱の間に、立て続けに2本の大型読み切りを世に出しました。
一方は「漫画を描く少女たちの物語」、もう一方は「映画を撮る少年の物語」。一見すると別の話に見えますが、2作には決定的に共通している構造があります。
それが メタフィクション ── 「物語の中で、物語を描くことそれ自体を描く」構造です。
この記事では、
- 『ルックバック』と『さよなら絵梨』が共有するメタフィクション構造
- それぞれが「描くこと」をどう物語にしているか
- 藤本タツキにとってメタフィクションは何の装置なのか
を、ファン目線で読み解いていきます。
※両作のラストに触れます。未読の方は先に作品本編を読んでから戻ってきてください。
そもそもメタフィクションとは何か
メタフィクションは、ざっくり言えば 「物語の中で、物語自身に言及する」表現 のことです。
たとえば、登場人物が「これは小説の中の話だ」と気付く、作者が物語に介入してくる、作中作(劇中劇)が物語の主軸になる ── こうした「物語の外側を物語の内側に折り込む」仕掛けの総称です。
藤本タツキの『ルックバック』と『さよなら絵梨』は、それぞれ違う形でこのメタフィクションを使っています。順に見ていきましょう。
『ルックバック』── 漫画を描く話を漫画で描く
『ルックバック』は、漫画を描く少女・藤野と京本の物語です。
ここでまず重要なのは、この作品自体が「漫画」というメディアで描かれている という事実。「漫画を描く話」を漫画で描くこと自体、すでにメタフィクションの入り口です。
「描く時間」が、ページの密度として表れる
藤野が机に向かって漫画を描き続ける場面は、季節が変わっても机の周りだけが変わらない、という独特の時間表現で描かれます。これは藤本タツキが、漫画というメディアの強みである「時間の圧縮」を最大限に使って、「描くことに費やされる時間」を体感させる仕掛けです。
つまり読者は、藤野の「描く時間」を、藤本タツキが「描いた時間」と重ねて受け取ることになる。漫画家が漫画家を描く瞬間に、二重の意味が立ち上がります。
「IF」の挿入が、物語をもう一段折り曲げる
物語の後半、ある重大な出来事をきっかけに、「もし藤野が違う選択をしていたら」というIFのシーンが挿入されます。
この「並行世界」の挿入は、読者に「物語の外側で、藤野自身が物語を書き直そうとしている」と感じさせる仕掛けです。藤野(作中の創作者)が、京本との物語を書き直そうとしている ── そう読むと、『ルックバック』全体が「藤野が描いた漫画」のようにも見えてきます。
物語の最後に置かれた、ある描写の存在は、この読みをさらに後押しします。藤本タツキは、「描き手としての藤野」と「描き手としての藤本タツキ」を、ラストで重ね合わせているんです。
『さよなら絵梨』── 映画を撮る話を漫画で描く
『さよなら絵梨』は、映画を撮る少年・優太の物語。こちらは『ルックバック』よりさらに踏み込んだ、明確なメタフィクション作品です。
全コマが「映画的フレーム」
本作の最大の特徴は、全ページのほぼ全コマが、横長で引きの構図 ── つまり「映画のスチル写真のようなフレーム」で構成されていることです。
これは単なる演出ではありません。「優太が撮っている映画の映像」がそのまま読者の前に提示されている、という意図的な設計です。
つまり読者は、漫画を読んでいるのと同時に、優太が撮った映画を観ている。漫画と映画が、紙の上で重なり合っているんです。
三層のメタフィクション
『さよなら絵梨』の構造をほどくと、少なくとも3つの階層が見えてきます。
- 優太が母を撮った映画
- 優太と絵梨を撮った映画
- それらをまとめて読者が読んでいる漫画
この3層が物語の中でぐにゃぐにゃと入れ替わり、「どこからが現実で、どこからが映画なのか」が最後まで明示されません。
藤本タツキは、「物語ること」「映像化すること」「記憶すること」の境界を意図的に曖昧にすることで、読者自身の「自分が今受け取っているもの」を問い直してきます。
爆発エンドの意味
ラスト、優太と絵梨が再会する場面で、爆発が起こります。
これは「現実離れした絵を入れることで初めて映画になる」という、作中で示された創作論を、藤本タツキ自身が実演してみせたラストです。
「これは映画です。だから現実ではありません」── 爆発という派手な絵で、藤本タツキは『さよなら絵梨』自体が一本のフィクションであることを宣言している。それでいて、そのフィクションは確かに読者の感情を揺さぶっている。フィクションだからこそ、本当のことが伝えられる ── そんな逆説が、爆発の中に詰まっています。
2作を貫くもの ── 藤本タツキのメタフィクション論
『ルックバック』と『さよなら絵梨』を並べて読むと、藤本タツキがメタフィクションをどう使っているかが見えてきます。共通点は3つあります。
1. 「創作すること」を物語の主題にしている
両作とも、登場人物が 「描く人」「撮る人」 です。藤野・京本は漫画家、優太は映画監督。藤本タツキは、自分自身の職業である「作る人」の物語を、繰り返し描いています。
2. 「喪失」と「記録」をテーマにしている
両作とも、誰かを失ったあと、その人を物語として残すことの意味を問います。京本を失った藤野が漫画を描き続けるラスト、絵梨を映画として残し続ける優太。「亡き人を物語にすることは、救いなのか、暴力なのか」── 藤本タツキはこの問いを、2回続けてぶつけてきました。
3. 観客=読者を物語に巻き込む
両作とも、「これを読んでいるあなた自身」を物語の構造に含めてきます。
『ルックバック』のラストで漫画というメディアそのものに向き合わされる感覚、『さよなら絵梨』のラストで「自分が読まされていたもの」を疑い始める感覚 ── どちらも、読み終わったあとにふっと自分の側に視点が返ってくる構造です。
藤本タツキにとってメタフィクションとは何か
ここまでの整理から、藤本タツキにとってのメタフィクションは、単なる小技や流行りの手法ではないことが見えてきます。
それは、「失った人を物語にすることの罪と救いを引き受けるための装置」 です。
「物語にする」という行為は、失った人をある形で固定してしまうこと。それは救いでもあるが、暴力でもある。藤本タツキは、その両義性をごまかさず、読者に突きつけるためにメタフィクションを使っているんです。
『ルックバック』と『さよなら絵梨』を続けて読むと、この作家が「描くことそれ自体」を真正面から問題にしている、稀有な作家であることがわかります。
まとめ
『ルックバック』と『さよなら絵梨』は、テーマも舞台も違いますが、藤本タツキの「メタフィクションへの執着」を共有する2作です。
- 『ルックバック』: 漫画を描く話を漫画で描き、IF構造で物語を折り曲げる
- 『さよなら絵梨』: 映画を撮る話を漫画で描き、三層構造と爆発エンドでフィクションを宣言する
- 共通項: 「創作すること」「喪失と記録」「観客を巻き込む」
藤本タツキの読み切り2作を続けて読むと、「物語にすることの罪と救い」を、作家がどれだけ真剣に考え続けているかが見えてきます。
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出典・参考
- 藤本タツキ『ルックバック』集英社, 2021年
- 藤本タツキ『さよなら絵梨』集英社, 2022年
- 少年ジャンプ+ 2021年7月19日掲載(『ルックバック』)/2022年4月11日掲載(『さよなら絵梨』)


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